教育にはお金がかかる?

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教育にはお金がかかる?

「教育にはお金がかかる」などとよく言われます。そのせいか、「『教育格差』の原因は『経済格差』だ」などと考える方も多い様です。けれども、本当にそうなのでしょうか?
確かに、今の日本の学校教育は様々な問題を抱えています。しかし、だからと言って、学校以外の塾や習い事にお金をかけなければ、子どもたちを満足に教育することもできないのでしょうか。お金がなければ子どもたちを満足に教育することもできない。充分なお金がなければ進学することもできない。それは本当でしょうか。
yamaはそんな風には考えていません。とくに小学生までの教育に関しては、教育にお金をかけることはありません。それどころか、ほとんどの場合では、お金をかければかけるほど逆効果になってしまうことが多いと考えています。

教育は何のため

何のために自分の子どもたちを教育するのでしょうか。何のためか、その理由や目的も考えずに子どもたちを教育することは危険です。理由や目的を考えないでいると、ついついやり過ぎてしまったり、他と比べて焦ったり、いろいろな情報に振り回され不安になったりして、結局は失敗するおそれが増えてしまいます。何をするにも同じことですが、子どもを教育するにも、最初からしっかりした理由や目的が必要です。ただなんとなくとか、周りに流されて、などの理由ではいけないのです。
一般論的な教育の本質や目的とは関係なく、自分の子どもたちを教育するのは何故でしょうか。それは、一言で言えば、子どもたちに幸せになってもらいたいから、ではないでしょうか。本来ならば、その前に、どうすれば幸せになるか、どんな状態が幸せなのか、などと考えるべきでしょうが、とりあえず、それはおいておきましょう。ここでは、仮に、「子どもたちに幸せになってもらうために、大学に進学させたい」と言うことにしておきます。
それでは、例えば、子供を大学に進学させたいなら、子どもにどんな教育を与えればよいのでしょうか。どんなふうに教育すれば良いのでしょうか。そして、いつから始めれば良いのでしょうか。子どもたちが小さいうちに、まずはそんなところから考えておくべきだと思います。子どもが「大学に行きたい」と言い出してから考えたのでは遅いのです。必要になってから準備しようとしてもけしてまにあいません。子どもの「やる気」が出るまで待つ、と言うのも絶対にお勧めはしません「やる気」は育ててやるものです。待っているだけで自然に出てくるものではありません。(正確には、「やる気」に関係する能力や特性を予め育てておいてやる必要がある、と言うことです。)

 

学力とは何か

子供を大学に進学させたいなら、そこそこの「学力」を育ててやらなければならないと考える方が多いのではないでしょうか。
しかし、yamaは「学力」という能力はないと考えています。「学力」とは、その子の持つ能力を知るための目安でしかありません。「学力はあるのに頭の回転が遅い子ども」とか、「成績は悪いのに頭はきれる子供」などがいるのはそのためだと考えています。
算数や国語、計算力や漢字力などはテストで調べて点数化することができます。このような能力や特性のことを認知能力と呼びます。それに対して、情緒や性格、嗜好や志向などはテストすることはできても点数化することはできません。例えば、「活発で明るい子ども」と「元気がなくて内向的な子供」ではどちらが点数が高いのでしょうか。また、先ほどと同じ子どもたちの見方を変えて、「落ち着きがなく感情的な子ども」、「落ち着いて考える子ども」などと表現したらどうでしょうか。活発、元気、明るい、落ち着き、感情的、これらも全て子どもたちの持つ能力や特性ですが、これらを点数化することは非常に困難です。このような能力や特性のことを非認知能力と呼びます。最近になってようやく、この非認知能力認知能力と密接に関係していること、非認知能力が「学力」に大きな影響を与えていることが広く知られるようになってきました
yamaは、全ての認知能力非認知能力は互いに関係しており、切り分けることができないと考えています。例えば、1つの能力、例えば計算力や漢字力にも様々な能力が関わっており、計算力や漢字力を伸ばすためには、計算や漢字の書き取りだけを繰り返し練習させるだけでは効果が低い計算力や漢字力に関わる能力や特性とともに伸ばしてやらなければならない、と考えているのです。記憶力が低いために計算が遅い子どもなら、何度も計算練習させるより記憶力を高める練習をさせた方が効果的ですし、言葉を知らないために漢字が書けない子供には、何度も書き取り練習させるより、言葉の意味を調べる練習をさせてやった方が効果的なのです。

人間は様々な能力や特性を持っているが、それらは一つ一つバラバラなものではなく、それぞれが連携し合って大きな集合体のようなものを形作っており、「学力」はそんな能力や特性や集合体の表面のほんの一部を指しているだけに過ぎないのではないか、とyamaは考えています。
考えてみれば、「学力」や「運動能力」などの能力も、情緒面や社会性などの特性も、それらは全て脳の活動によって生まれます。例えば、手足を動かすのも脳、手足で触っているものを感じとるのも脳、それによって快・不快を感じるのも脳、さらに、それを使ったりそれの価値を決めたりしているのも脳なのです。細かな話しをすればそれぞれ分担する脳の部分は違うのでしょうが、それらが完全に独立して活動しているはずがありません。互いに連携しあったり補い合ったりしながら活動しているはずです。その意味で、全ての能力や特性は互いに関係し合っているに違いない、とyamaは考えるのです。

話を元に戻します。この考えに立てば、大学に進学させたいと考えるなら、「学力」だけを見ていたのでは足りない、と言うことになります。「学力」に関係しているであろう全ての能力や特性を伸ばしてやる必要があります「学力」には多くの認知能力や非認知能力が関わっているに違いないからです。

 

非認知能力

非認知能力には様々な能力や特性が含まれていると考えられていますが、次のようなものがその代表的なものです。
自己認識や自己肯定感、自己効力感、意欲や集中力、忍耐力や頑張る力、自制心や理性、客観的思考力や判断力、行動力や困難に立ち向かう力、リーダーシップや協調性、社会性、対応力や応用力、受援力、楽観性や失敗から学び取る力、創造力や工夫する力、などなど
さて、このような力はどこで育つのでしょう。どうやって育てれば良いのでしょう。いつから育て始めれば良いのでしょう。
ちょっと考えて頂ければおわかりになると思いますが、このような非認知能力は様々な体験の中でしか培われることはありません。言いかえれば、どんなに塾や習い事に通わせても教えてやることができないのです。仮に教えることができたとしても、教えるだけでは子どもたちの中で根付いたり育ったりはしないのです。家庭で子どもたちに様々な体験をさせながら育ててやるしかありません。例えば、おやつのお菓子を与える際にも、全て前もって準備して子どもに与えるのではなく、子ども自身に準備させたり準備を手伝わせたりすることで、子どもたちの非認知能力は飛躍的に培われます。学校や学習塾で机に座って授業を受けているだけでは、子どもたちに様々なスキルやテクニックを詰め込むことはできますが、けして非認知能力を育てることはできないのです。子どもが「暑い」と言っただけで冷房をかけたりするのも、非認知能力を育てるためには、けしてよいとは言えません。「暑いからなに? どうしてほしいの?」と聞いてやることはイジメや意地悪ではありません。子どもにとって過保護や過干渉が良くない、と言われる理由の1つです。
非認知能力は、生まれる前、お母さんのお腹の中にいるときから成長を始め、10歳頃にほぼ大まかな形が作られると考えられています。また、非認知能力の成長のピークは2~6歳頃だとも考えられています。少し前に話題になったモンテッソーリ教育は、子どもたちが本来持っている可能性、今で言うこの非認知能力を伸ばすことで広く知られています。子どもを大学に進学させたいと思うなら、その子どもが生まれる前から、親はそのための準備を始めなければならないのです。小学生や中学生になってから、塾や習い事に通わせているだけではけっして足りません。極端な言い方をすれば、それ以前にどれだけの体験を積ませてやったか、で既にほぼ勝負はついてしまっているのです。
それだけではありません。大人も子どもも持っている時間に変わりはありません。1日が24時間であることは同じです。子どもたちに様々な習い事をさせることは、子どもたちから時間を奪っていることでもあります。小学校時代は子どもたちが体験を通して「非認知能力」を高めることができる最後の機会です。子どもたちから最後の機会を奪わないでやってください。

 

早期幼児教育の危険性

少し前までは、早期教育や幼児教育が重要だ、などの情報が巷に溢れていました。○○幼児教室や△△右脳教室などの看板がそこら中にありました。
ところが、早期の幼児教育の危険性が指摘され始めてから、その数がだんだん減ってきています。(他府県であぶれた教室が入ってきているのか、沖縄では逆に増えている印象もありますが、、、)
非認知能力は幼児期の体験を通して培われます。塾や習い事で身につけさせることはできません。非認知能力は認知能力が育つための下地のようなものです。下地の準備ができていないところに、何かを植え付けようとしても育つはずがありません、それどころか様々な歪みや悪影響を生んでしまうかもしれません。以前、大流行した幼児の英語教室が下火になってきています。その理由は、英語と日本語の構造が大きく異なるからです。まだ充分に日本語も使えていない子どもに英語を教えてしまうと、その子どもの英会話力は伸びるものの、言語能力(読解力や言語を使った思考力)に悪い影響を及ぼすことが広く知られるようになってきたからです。
しかし、早期幼児教育の危険性の指摘は、そのまま、家庭内での非認知能力を意識した子育ての重要性を指摘しています。家庭内での早期幼児教育まで危険だと否定しているわけではありません。むしろ、お金をかけてまで塾や習い事で子どもの時間を奪うくらいなら、人任せにしないで親子で一緒に様々な体験をするべきだ、と言えるでしょう。

 

鉄は熱いうちにうて

子どもたちの非認知能力を高めてやる必要があるのは、けして大学進学だけに限った話しではありません。自己肯定感や自己肯定感が子どもの一生を左右してしまうことはよく知られるようになりました。繰り返しますが、非認知能力は体験を通してのみ培われます。塾や習い事で身につけさせることはできないのです。今後ますます、学校教育や家庭教育の重要性、特に乳幼児期の家庭教育の重要性が再認識されてくるでしょう。
以前は、子育てや教育において「鉄は熱いうちにうて」とよく言われたものでした。子育てや教育は幼い頃が肝心だ、と言う考え方です。近頃、あまり聞かなくなりましたが、近いうちにまた、耳にする機会が増えてくるだろうと思います。
大学進学などの学力向上だけでなく、子どもたちに幸せになってほしい、こどもたち自身の力で幸せをみつけてほしい、とお考えなら、そのための能力や特性を早くから育ててあげてください

教育にお金は(それほど)かかりません
教育にお金がかかるのは事実です。しかし、それほどかかるわけではありません。多くの自治体で高校までの授業料も無償となりました。一部の自治体では給食費の無償化も始まっています。以前に比べて就学援助やさまざまな奨学金ももらいやすくなっています。まだまだ条件付きではありますが、返済不要の奨学金も増えつつあります。経済的に苦しくても子どもたちを大学まで進学させてやることもできる時代になりつつあります。幼い頃から家庭で様々な体験を積ませてやることで子どもたちの否認知能力を高めてやれれば、塾などに通う必要もそれほどはありません。これからは、「教育格差」=「経済格差」の時代ではけしてありません。お金はあった方がよいに決まっていますが、お金よりも「家庭力(家庭が持つ子どもを育てる力)」の方がずっと重要です。これからは「教育格差」=「家庭力格差」の時代になる、とyamaは考えています。
ぶながやっ子ハウスの一番の目的は、大宜味村の子どもたちの健全育成のために、利用者の家庭にゆったりとした親子の時間を作り出し、各家庭の「家庭力」を高めてもらうことです。宿題を済ませて帰宅させることにこだわるのもそんな目的があるからです。

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